前へ
胸の奥の感覚に耐えながら、林の中をしばらく走る。
アンゼロスの秘密の水浴び場は隊舎から歩いて20分ほど。森の中の獣道を駆け、崖上から狙う広い広い射的練習場を突っ切る……と、その途中の野原に、セレンはいた。
月光を浴びて、肩から濡れた薄布を一枚を纏って。
美しい髪から滴り落ちる水滴。薄く透ける布。
さっきの霧をそのまま連れてきているのか、水気のない草原で彼女の周りだけがゆるゆると光を煌かせている。それは服の代わりに光を纏ったようで、なんだか儚げな今のセレンの雰囲気に妙によく似合っていた。
「……アンディさん」
「セレン」
風に吹かれる。光の衣が揺らめく。
セレンの目はいつものように優しく笑っているようで、それでいて無表情にも見えて、濡れた頬は泣いているのかそうでないのかわからない。
なんと言っていいのか少し迷って、結局俺はつまらない言葉を口にした。
「風邪引くぞ」
「……優しいんですね」
「お前が寒がりなのは知ってるし」
「…………」
無言。
歩み寄ることも逃げることもなく、二人で見つめあって数分を過ごす。
お互いいくつもの言葉をかけようとして、かけられなくて、何から言ったらいいものかわからない。
何かを口にしたら、それでセレンとの絆が切れてしまう気がした。それがとても怖かった。
俺が今まで十五年、ハーフエルフの彼女が待っているという事実だけをどれだけ頼りにしていたか、支えにしていたかが、今になってわかる。
全てを否定されてしまったら、それだけの時間を粉々にしてしまう威力があるかもしれないと思うと、どうしても次の一言を紡げなかった。
ややあって、セレンはゆっくりと次の言葉を口にした。
「アンディさんは、十五年前にあなたに捨てられたくないと言った女の子のことを、どれだけ覚えていますか?」
「……温泉でスケベなことをした。フェラしてもらった。猟師小屋で待ち合わせして毎日身体を撫で回した。耳を切りかけて、首輪を……作った」
「ええ。全部、間違いない。私もそれを知っています」
一拍。
「その子の名前を、覚えていますか?」
「…………」
「覚えてないですよね」
何故。
そんなことを言うのだろう。
俺がド忘れしていたことをどうして知っているんだ。
誰に問われても思い出せなかったという事実は、何か意味があったのか。
「それは、セレン……じゃないのか?」
セレン、無言の微笑。月光と光の衣の中で、とても哀しげな微笑。
「最後まで名前を訊かれなかったって、言ってました」
「!」
人づてだと、暗に認めた。
つまり、どういうことだ。
「幼いあなたに愛されていたハーフエルフの名前は、アップルといいます」
「お前は、彼女じゃないのか?」
「私は……」
次の一言を躊躇して、何瞬も何度も躊躇して。
頬に新たな水滴を追加しながら、彼女はやっと搾り出す。
「私は、違います。この耳の傷も、この首輪も、あの時のアップルのまねっこなんですよ」
なんとなく話の流れが読めていても、心臓に悪い一言だった。
俺の過去は否定されてはいない。それはきっと、良いことだ。
ただ、目の前の少女が、自分を待っていて、ずっと自分と一緒に歩んでくれると、そう信じていた少女が、実は無関係だったなんていうのは信じたくない。
ずっと安泰だと思って、約束を信じて愛してしまった少女が本当は勘違いだったなんて、随分酷い冗談だ。
「…………」
なんだか力が抜けて、草原にぽすっと尻餅をついていた。
罵るべきだろうか。逃げ出すべきだろうか。考えようとしても混乱してしまって、そんなこともできない。
「……俺は、つまり……からかわれてたのか? 俺は、君は、何だったんだ?」
泣き言を言っていた。答えが欲しかったわけじゃなくて、本当にただ漏れただけの泣き言だった。
セレンはシャッ、シャッと丈の低い草を踏んで近づいてきて、尻餅をついた俺に顔を近づける。
首に巻いていた首輪をゆっくりと外して、地面に置いて。
「……嘘ついていたのは、本当にごめんなさい。でも、でも、私……」
涙がまた溢れる。溢れた涙が言葉を乱す。
「それでもあんでぃさんがいないとだめなんですよぅぅっ!!」
彼女は俺に飛びついて、押し倒して、ワンワンと泣きながら謝罪と隷属の誓いを繰り返し始めた。
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