「婆ちゃんが……死んだ?」
『そうだ。最近ずっと入院していたんだが……何度かお前を呼ぼうかって話をしていたんだが、都会で頑張ってる健一に負担はかけたくないっていうんでな……』
「なんだよそれ……おい、おかしいだろ何でそれ俺が知らないんだよ、何で知らせないんだよ……」
『だからな、お袋の……』
「そうじゃねーだろ!? 婆ちゃんがどう言ったとかなんとかじゃなくて……クソッ、ふざけんなよ!?」
 俺はケータイに怒鳴り、電話の向こうで気色ばむ親父の気配を感じながらも、構わずケータイをコンクリートに叩き付けた。
 砕けて四散してしまえばよかったのに、ケータイは軽い音を立てて跳ね返り、ただ電池カバーが外れて電池が飛んだだけ。なんとも間抜けな音を立てて、終わりの日の近い古アパートの前の道路に質素に散る。
 俺は自分でも動転し過ぎだとどこかで考えながらも止まらず、しかし何に向かって当り散らせばいいのかも思いつかずに、震える呼吸を数度、そして、今からではもう取り返しのつかない事態に絶望して呼吸が止まり、変に晴れた空が忌々しくて、中途半端に溜めた息を奇声にして空に放つ。
「……うああああ!! あああああ!!」
「健一!」
「おあああああっ!!」
 こういう行動をする奴を時々駅で見ることがある。
 言うまでもない。頭のオカシイ奴だ。東京には結構いる。野放しにされている。それが静岡から出てきて一番に驚いたことだ。
 でも俺は自分がそんな行動を取っていることに気づき、止められず、もしかしたら俺が舌打ちしながら距離をとって一分後には記憶から消していたそんな連中がもこんな気持ちだったのかと思う。
 なんだよこれ。
 ふざけるなよ。どういうことだよ。
 婆ちゃんが……俺の知らないうちに入院してて、ここにみかんがいて、その気になればいつでも会いにいけるのに、それどころか気づいてさえいれば死因すら取り除けたはずなのに、それでも間に合わなくて、みんな俺が一番婆ちゃんと仲がよかったの知っていながら隠して、手遅れになってから電話をよこして、俺は婆ちゃんに気遣われながら何やってたかって、ぬるま湯の大学生活の延長戦してて、それが強制終了になることを惜しんでぼんやり悩んだ振りなんかして、それを婆ちゃんは都会生活で大変なんだろうなんて、自分が死に瀕しながらも勝手に思ってて……なんだよ。なんだそれどういうコメディだよふざけんな。
 色々な叫びが煮えたぎるように胸の奥から顔を出し、泥のように砕けて形を失って混ざり、意味のある言葉は残ることなく、ただ途轍もない胸糞の悪さと喪失感だけが内圧を高めて、俺に不安定な叫び声を上げさせる。
 酸素が足りない。いや、過呼吸って奴か、いつの間にか意識がぐらついていて、俺は無様に震える手を眺めながらもう一度叫び。
「……──────!!」
 いつの間にか聞こえていた、人ならざる歌声に包まれて、崩れ落ちる。


 そして、目が覚めた。
「……う」
「健一」
「……な、何……が」
 重い。
 頭も、腕も、足も、全身がヌタリと重い。
「……見ておれんかったのでな。落ち着かせるためにワシが一旦眠らせた。許せ」
「……みかん、が」
 みかんは、まだ綺麗とはいえないもののだいぶ物の減った、このコーポ島村の六畳一間で……俺に膝枕をしながら、少し悲しげに微笑んでいた。
 それで思い出す。
 俺は、親父からタチの悪い冗談の電話を……。
「……ババ様が死んだと言っておったな」
「…………はははは」
「健一」
「……はっ、親父の……あの馬鹿親父の考えそうな、デリカシーのない冗談だ。よく考えたら十年ぐらい前、みかんに婆ちゃん健康体にしてもらったじゃんか。だから今さら婆ちゃんがそんな、死ぬような病気になんて……」
「そこまで、ワシらは万全にケアなどせぬよ」
「……っっ!!」
 脳髄に火花が散る。重すぎる肉体に火が入り、俺は倦怠感を無視して起き上がり、そして振り返ってみかんの胸倉を掴む。
「どういうことだよっ!?」
「…………」
「言えよ!! なんで婆ちゃんに長生きさせようとしないんだよ、お前だって世話になってただろうかよ!!」
「……人でいさせるためじゃよ」
「あ!?」
「健一」
 みかんは俺に胸倉を掴ませたまま、年輪を刻んだ瞳を、向ける。
「……殴って気が済むのなら殴れ。……お主がその調子では、話が進まぬ」
「…………」
 俺は、手を離す。
 ……みかんが見せた「異星文明人」としての眼差しに、凍らされて。
 みかんは殴ることを許可した。
 それは贖罪なんかじゃない。
 俺が殴りたいから、殴って感情を爆発させれば会話が再び成立すると計算できるから、完全に無駄な行動を許容しただけだ。
 即死でさえなければ、魔法を使う事で傷なんかいくらでもなかった事にできる。
 それ込みの、ただのガス抜き行動の許可。
 少なくともみかんの声の響きから俺に伝わったのは、そんな感情のこもらない方程式でしかなかった。
 ……そうだ。
 俺は、逆に理屈を全て耳に入れず、ただ感情を叩きつけようとしている。
 そこに意味のある会話なんて生まれない。
「……悪、かった」
「お主がそうも取り乱すのは滅多にあることではないな。まあ、当然か」
 みかんは襟を正す。
「ババ様は、優しかったからのう」
「……そ、そうだ、みかん。魔法だ。魔法なら婆ちゃんが死んだって事実をナシに……」
「健一。……それはな、ならんのじゃ」
「みかんっ!」
 なんとなくは、わかっている。理屈じゃなく、ただみかんが即座にそれをやろうとしないことで、駄目な事なんだとわかってしまっている。
 だが。
「俺は、普通に生きて普通に死ぬだけでもいい! 婆ちゃんは生き返らせてくれよ! そっちの方が……俺をエルフにすることだってできるんだから可能だろ!」
「可能じゃ。しかしな健一」
「っっ……」
「それは、滅びを始めるということなのじゃよ」
「なんでだよ……人が、生き返るだけだろ……普通に人の手助けはちょくちょくやるくせに、なんでそれだけ……」
「生き返り。ああ、確かにそれは、大したことではない。難しくなどない。例え灰になっていても、静岡の大地はババ様を覚えておるじゃろう。そこからババ様を新たに生み出すなど造作もない。……じゃがな。ワシらが問題としておるのは死者が生き返ること、そのものではなく……死と不幸の否定じゃ」
「……何が違うんだ」
「これまでにも、いくつもの種族、あるいは個人が……そうやって未覚醒の種族に手を貸した。……ワシらの扱う魔法はゲームのそれのように制限などない。表現しきれるのなら物理法則もなにも無視し、全てを叶えうる。……その調子で、死んだ誰かを生き返らせる。当然、そのまま老いで死なぬようにもできる。生き返った者は理不尽に思うじゃろうな。自分だけが生き返り、自分が生きて見てきた死はなんともならぬのかと。……実は、それさえも簡単じゃ。ワシらの魔法は、緑色のナメクジどもの生む年イチの奇跡とはワケが違う。繋がる限り、思いつく限り、その星で死んだ全ての生き物を蘇らせ、その上相争わずともいられるようにもできる。星ごと全ての命、それぞれの欲求を満たすのもまた、銀河意識体からすれば大した仕事ではないんじゃ」
 みかんは溜息をつく。
「結果は、誰も何もしなくなる。考えなくなる。そこで、その星の歴史が終わる。……できることを全て提供すれば、そうなる。枯れた星が一つ増えてそこまでの話になる」
「……そこまでしなくても」
「ならば、ワシがババ様を生き返らせて、それ以降知らん振りをする理由はなんじゃ?」
「…………」
「死を否定する方法を知れば、人は良く生きる事を馬鹿らしく思う。不幸をなくせば、人は幸せを目指さなくなる。当然の話じゃな。じゃから、ワシらが消え行く命に手を出すのは……本人が個人としてそれを望み、己の責任において死を超える……そういう時だけじゃ」
 ……みかんは、そう言いながら小さな胸に手を当てる。
「ババ様は良い御仁じゃったがな。ワシは人のままで済む範囲しか、手を出していいと思えん。健一よ。どうしても、彼女の生き返る未来を望むというのなら……お主が、定めを崩す責任を負え。いずれこの星全ての者に……命の定めを踏み躙り得る事実、納得させる覚悟があるのなら」
「…………」

 俺は、またも。
 またしても。
 ……自由に、打ちのめされる。
 エルフたちは気軽に人と子を作り、当然の顔をして何千年も生きる。
 地球人には百年やそこらの運命を受け入れろという。
 それを不公平だと思いながら、反論して地球人にそれを与え、世界を一気に終末へ向かわせる覚悟なんて当然できっこない。
 みかんはきっと、俺が断固として婆ちゃんの生き返りを主張すれば、黙ってそれを実行するだろう。
 俺の本音は一つ。婆ちゃんに一目会いたい。
 ……だが、彼女らの魔法をもってすれば生き返らせるだけでなく、もっと多くの余命を与え、若返らせ、死の原因を徹底的に取り除く事も当然できる。
 俺は「そこまでしなくていい、婆ちゃんに一目会えればそれでいいだけだから」と言い張る事もできるが……それこそ、弄ぶということだろう。
 ならば、例えば婆ちゃんの復活に完璧な形を与えるとして。
 しかし婆ちゃんだけでいい、他には与えないでくれ……なんて言うことで事を収めるのはアリなのか?
 そんな理屈に、みかんを従わせるのはアリなのか?
 それは神を気取ることと同じだ。
 全能の力を身勝手に呼びつけ、享受させる相手を選び、世界中で秒刻みに起こっているだろう他の悲劇は無視する。
 元々エルフたちは勝手な判断で魔法を使うじゃないか、何が悪い……と、心の中で誰かが叫ぶけれど、それは結局のところ、彼女らが「存在しない」から、許されるのだ。
 俺が……地球人の俺が彼女らの倫理を越えて望むということは、それと根本的に意味が違う。
 ちょっとした奇跡や運命で済む話じゃない。厳然とした境界線を踏み壊す事だ。

 俺は、考えて。
 そのまま何分も、何十分も、ずっとずっと考えて。

「……ごめん」
 結局、神様になんかなれなかった。


「オノケン先輩っ!!」
 夕方になって、生田が部屋に飛び込んできた。
「……あ、いた」
「……おう」
「電話出ないんで心配したんですけど」
「……ちょっと、な。壊しちまった」
 俺は西日だけの明かりの中、窓にぼんやりと寄りかかったまま俺は笑ってみせる。きっと、とても情けない笑顔だっただろう。
 巡り巡って、俺は大好きな婆ちゃんをただ忘れて死に目に遭えなかったチャランポランの最低な孫という現実を受け入れることにした。
 それしか、なかった。
「ウメさんにも繋がらないし、不動先輩からも通じないって言うし……何かあったんじゃないかって……ああもう次からPCメールからでいいからそういうの回しといてくださいよっ!」
「何でケータイ壊れたぐらいでお前にそこまで気を使わなきゃいけないんだよ。つか今朝壊したばっかりでそんなに血相変えられたら引くぞ」
「……だってオノケン先輩だし」
「どういう意味だ」
 はぁ、と生田は髪を掻き揚げる。
 大学を出てから伸ばしだした髪はセミロングと言える長さまで伸び、中性的な印象だった生田はこの一年で随分と女らしくなった。
 あとは眼鏡をコンタクトにしたらもう完璧な美女だといえる。いや眼鏡があるからって駄目というわけでもないんだけど一般受け的にね。
「……みかんちゃんは?」
「気がついたらどっか行ってた。……ちょっと、喧嘩してな」
「喧嘩なんてするんですね。みかんちゃんと先輩でも」
「……俺もみかんも割と喧嘩っ早いほうだと思うけど」
「オノケン先輩も気難しいトコあるし、みかんちゃんも時々トゲトゲしかったりするけど……でも、不思議とじゃれあい以上の風景は出てこないんですよね」
「……そうか、な」
 言われてみれば……うん。
 きっと、俺がバカ過ぎるからみかんはのらくらかわしちゃうだけなんだろうけど。
 でも、俺はみかんに理不尽を言った。
 錯乱していたとはいえ……随分、踏み込んじゃいけないところにも踏み込んだ。
 もう、帰ってこないかもしれないな。
「あーあ……」
 小さく溜息をつく。
 こうなるしかなかったのかもしれない。アパートも、みかんとも。
 俺は、やっぱりどこまでもただの地球人で……「夢」の時間はちょっと長過ぎたけど、もう終わる。
「何、しゃんとしない顔してるんですか。部屋の片付け続けるんでしょう?」
「なんだかもう全部捨ててもいい気がしてきた」
「……末期だ」
「だってめんどくさいじゃん」
「仮にもオタクが言う台詞ですか」
 生田は呆れながらコートを壁にかけ、上着は重ね着Tシャツだけの姿になる。
 陽気は暖かくなってきたとはいえ、ちょっと寒々しい。
「引越し先、決まってるんですか?」
「全然。さくらに同棲誘われてるけど」
「今さらですけどあの人に付き合う必要これっぽっちもないですよねオノケン先輩。ああいう肉食系に捕まると悲惨ですよ?」
「……お前もさくらに辛辣だな」
「あーゆー計算高い人嫌いなだけです。……っていうかですね」
 ぐぐ、と生田は顔を近づけてきて。
「敵視する理由、わかってるでしょうに」
「……生田」
「なごみ、ですよ。鈍感キャラとか流行りませんよ、今」
「…………」
 さくらもアレだけどこいつも気が長いよなあ。ハーフとはいえエルフゆえなのか。
「先輩さえその気になってくれたら私、実家出るんですけどねー」
「……同棲ネタに便乗かい」
「なんと今ならみかんちゃん付きでもオッケー」
 マジで?
 ……って、そのみかんは……。
 と、言おうとしたら、ガコンと天井が開いてウメさんがにゅるりと蛇みたいな動きで出現。
「ちょーっと待ったー!」
「出た!」
「オバケみたいな言い方はよくないと思う! あとごめんナマデンワちゃん今着信気づいた」
「なんで出なかったんですか」
「プリキュアオールスターズNS! 映画館ではケータイを切りましょうってほらあの客席ファック推奨の余計なオチつけてるCMが」
「あれ推奨してるのキスまでですよ!?」
 ウメさんは本当いつでも絶好調だなあ。
「あとそれからウメさん付きでもオッケーにしておくとポイント高いと思うよ! 引越し先の件!」
「ついてくる気ですか!?」
「オトナの女には一人寝が寂しい夜もあるのさ……もちろん三人四人ってのもイイと思います性的な意味で」
「先輩がせっかくシリアスな画風で将来悩んでるのに変な誘惑しないでください!」
 画風って何の話だ。
 ……なんてグダグダやっていると、玄関のノブがガチャリと音を立てる。
「え?」
 誰だろう。
 期待七割、不安三割で振り返ると……そこに、立っていたのは。

「ば……ばあちゃんっ……!?」

 死んだはずの婆ちゃんが、畑仕事の野良着のままで、何故か……そこに、いた。
「え……?」
「あらら。はじめましてー♪」
 生田はきょとんとした顔。そしてウメさんはしゅたっと手を上げてのんきに挨拶。
 ……だけど。
「……し、死んだ……死んだはず、だろ……?」
 そこにいるはずはないのだ。
 相談したみかんも復活を否定した以上、絶対に……いや。
「や、やっぱり……親父の連絡自体が冗談で……?」
 一縷の望みをかけて呟き、近づこうと一歩を踏み出す。
 それなら、すべてが丸く収まる……何も解決するわけじゃないけど、でも。
「ん? ザッキー、ちゃんとよく見て。ナマデンワちゃんもスペルキャストで磁気知覚強化して」
「え……」
 ウメさんに言われて、俺は胸を押さえて動悸を鎮め、もう一度、婆ちゃんをよく見る。
 ……婆ちゃんは。
 透けていた。
 その後ろに、みかんの姿が見える。
「話をつけてきた。……まあ、死んでしまったババ様に、健一の声が届くわけではないが……な」
「って……これ、つまり……」
「残留思念じゃ。……別れを言うくらいは、できてもバチは当たらんじゃろ」
 みかんは、どこか疲れたというか……いや、泣いていたのか。
 鼻声になりそうなのを我慢したような喋り方で、優しく種明かしをした。
 残留思念。
 地球の磁気に残された「幽霊」。
「……ばあちゃん……俺……」
『大きくなったねえ、健一』
「……お、大きくなってはいないよ。高校のときと同じだ」
『……アタシんなかじゃ、健一は中学生の時のまんまだからねぇ』
「…………」
『元気でいるなら、それでいいよ。一番の孝行だ』
「……ばあちゃん。俺、全然立派になんてなれてなかったよ。ばあちゃんが苦しんでる時もそんなこと全然知らなくて、その日暮らしでヘラヘラしてて、将来の事とか考えないようにして、ただ地元に帰るのがなんとなく嫌とかで帰らなくて、……ごめんばあちゃん、俺っ……!!」
『いいんだよ。ばあちゃんが病んだのはばあちゃんが悪いのよ。健一は……』
「でもっ……」
 もう届かない。これはただの、ばあちゃんの記憶のコピー。
 そうはわかっていても、懺悔が止まらない。
 ……そうか。
 俺、許されたかったのか。ばあちゃんのこと気にしてなくて、元気なままだと勘違いしてて、ちっとも自慢になるような奴になってなかったことを……婆ちゃんに、笑って許して欲しかったのか。
 だから生き返ってくれる可能性に固執して、みかんに迫ったりして。
 なんて、浅ましい。愕然とする。
『……健一は若いんだから。それで、いいのよ。……だけど、できれば』
 婆ちゃんは、婆ちゃんの幻影は、そんな浅ましい俺の求め通りに笑って。
『いつか曾孫に、ばあちゃんとの思い出を話してやってね。本当は直接会いたかったけど、健一の子供ならきっと可愛いからねぇ』
「……ばあちゃんっ!!」
 幻が笑顔を浮かべる。
 その笑顔に、俺はもう会えない。
 それがたまらなく辛くて、空虚な贖罪をする自分がたまらなく惨めで、俺は膝をついた。みっともない顔をして泣きながら、手を伸ばした。

 幻の婆ちゃんの手が、俺の手を握る。
 感触は、ない。
 だけど……俺の記憶の中から確かに、あの皺だらけの固い手の手触りが蘇っていた。


 …………。


 コーポ島村は四月の中旬に取り壊されるらしい。
 俺たちはもう、一刻も早く出て行かなくてはいけない。
 行き先は決めていないけど、ばあちゃんの幻と別れを告げた夜、みんなが手伝ってくれたおかげで引越しの準備だけは整った。
 風呂なし六畳一間で生活できていたんだ。どこでだって大丈夫だと思う。
「ウメさんはどうするんだ?」
「ん? 私はねー……むかーし使ってた隠れ家にひとまず荷物だけ運んだから、しばらくはトーンキャスト通勤かな。ザッキーんとこに」
「いや俺は職場じゃないよ!?」
「つっても前のお店、しばらく前に閉店しちゃったし。西川口も景気悪くてねー」
「そうだったの!?」
「ライムちゃんがやたらと来てたの、おかしいと思わなかった?」
 ……いや、つまりそれ無職……いやアルバイターの俺が言えることは何もないけど。ぶっちゃけエルフは稼がなくたって生きていくだけなら楽勝らしいし。
「それよりワシらの新居じゃろう。ウメのようにトーンキャストで飛び回るのもいいが、できれば大田区内が……」
「知ってます? 大田区って平均家賃、23区内でも有数の高さらしいですよ」
「いっそ秋葉原近くに住むか」
 みんなで持ち寄った賃貸情報誌をつき合わせて、世知辛い現実と戦うエルフたち+俺。
「……それにしてもザッキー」
「なんだよ」
「……曾孫の話、どうすんの?」
 軽い調子でズバッと聞くウメさん。俺、唾を飲み損ねて変な風に咳き込むの巻。
「っっっ、げほ、げふっ……ぐ、んげふっ!」
「急ぐんならウメさんが協力してあげてもいいゾ☆」
「ウメ!!」
「そ、そーゆーの軽く言わないでくださいっ!!」
「何よー。こんだけ女ひっかけるだけ引っ掛けといて足掛け五年も本番しないザッキーを心配してやってるだけじゃないのよー」
「え、ホントに誰ともやってないんですか? みかんちゃんとも?」
「さくらちゃんには何度か逆レされかけてたけどね♪」
「監視してるのかよ!?」
「……そうか、まだ他とはヤッとらんのか」
 ちょっとだけニヤけかけるような真面目腐ってるような微妙な表情をするみかん。
「……ん? 他とはって……みかんちゃん、もしかして」
「え、マジ? このウメさんアイを潜り抜けていつの間に!? っていうか童貞切るんなら私だって約束したじゃない!?」
「シテナイヨ!?」
 ぎゃーぎゃーと場が紛糾したところで、誰かが取り落とした情報誌がパラッと開いて。


 1K、月4万。礼金敷金なし。
 駅から徒歩8分、築20年、トイレ別風呂共同、エルフ歓迎。
 しまむらハイム 担当○○まで──。

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