「もうすぐ登校日かぁ。メンドクセー」
 少年はカレンダーに咲く花丸に、すっかりげんなりした顔をする。
 母の手によるものだ。ご丁寧にも前日の日付の下には「よういするもの」まで羅列してある。
 怠惰な眠りと、ダークエルフの笑顔に一日おさらばしなくてはいけない。そのことが息苦しく感じて少年は肩を落とした。
「久し振りにお友達みんなと会えるんでしょ? いいじゃない」
 ダークエルフは罪のない顔で励ます。
 現金なもので、少年はそれだけで「まあ半日ぐらい我慢してもいいか」という気になった。
 そして、ふと気になる。
「ねーちゃんってさ、学校行ってたの?」
 男子三日会わざればすなわち以下略という言葉にあるように、少年とは学習する生き物である。
 少年はまだ彼女と二ヶ月にも満たない付き合いだったが、これまでの経験から、彼女に常識はたまに通用しないことを学んでいた。
「あー……うーん……どうなんだろね」
 案の定、彼女は奥歯に物の挟まったような言い方をした。

 学校。
 それは世界最古といわれるシュメール文明から連綿と続く、極めて効果的な教育手段である。
 家庭教育や通信教育など、代替的教育手段は数多く試みられているものの、未だ学校制度に勝るものは完成されていない。この点に限っては、人類は五千年前からさっぱり進歩していないとも言える。
 日本の知識は頼りない彼女も、根本的な知性については決して人に劣るものではない。なんらかの教育に相当するものを受けていると考えるのが普通なのだが、少年の予感はズバリ、当たってしまっていた。

「小学校とか中学校とか、なかったの?」
「うーん……日本にあるようなのはなかったかな。わたしのふるさとはみんなのんびりやさんでね、あれを覚えなさいとか、これぐらいできなきゃとかは言わないの。自分でやりたくなったら勉強する感じ」
「いーなー。ずーっと遊んでてもいいんだ?」
「まあね。でも……やっぱり勉強はしちゃうよ、結局。みんな知ってること、できることが自分だけ駄目なんて、楽しくないじゃない」
「うーん……そんなもんかなあ」
 少年には理解しがたい話だったが、退屈で長すぎる人生を送るエルフにとっては教養すら暇潰しのひとつに過ぎない。
「ふふっ、私の故郷はちょっと特別だから」
「うーん……」
「君は勉強、嫌い?」
「好きなわけないじゃん」
 体育と図工は結構いけるが国語も算数もてんで面白くない。理科や社会科だって教科書に落書きしてる時間のほうが長い、そんな少年である。
 だがそれは、五年前の思い出にさえ遡れず、三年後の自分さえ想像できない少年ゆえの、座っているのがもったいない、今という時間を自由に駆け巡りたいという純真な欲求ゆえのことだ。
 約束された久遠は、言い換えれば確定された空虚でもある。
 必要なものは何もかも満ち溢れ、争う必要がないところまで進歩しきった種族である彼女は、まだ幼くも力強く進歩を続ける地球人類の少年の、世界の何もかもにときめくキラキラした瞳が途方もなく魅力的なのだった。
「学校は嫌いじゃないんでしょ?」
「うーん……休みでいいなら行きたくないけど、まあ……別にヤなわけじゃない」
「ふふっ。そうだよね」
 彼女は少年を優しく撫でた。
「こ、子供扱いすんなよ」
「してないよ」
 少年は鼻白むほどには彼女の手が嫌なわけではない。だが一応、お嫁さんとか何とか言うぐらいなので、対等に扱って欲しいというポーズは取らなくてはいけない。プライド上。
 が、彼女はそんな少年の胸の内を知ってか知らずか、少し考えてから、いいことを思いついた、という顔をした。
 彼女の悪戯っぽい目つきに、少年はちょっとした胸騒ぎを覚えたが、とりあえずは何も言わずに撫でられることにした。


 登校日。
 小学生の登校日なんて無事の確認みたいなもので、別段何があるわけでもなく、連絡帳と絵日記のさえなければ手ぶらで登校してもいいぐらいだ。
 朝、連絡帳と絵日記を一応提出して、校長先生と教頭先生の退屈な話を聞いて、みんなで教室を掃除して、2時間ぐらいしたらもう帰り支度である。
 そのつもりで久々に顔を合わせたクラスメイトたち……仲のいい奴もいれば嫌いな奴もいる、積極的にうるさい女子もいれば、間接的に男子を嘲る性格ブスの女もいる、そんな見慣れた面子の中に、ふと気がつくと知らない女の子がいた。

「…………」

 教室の七割が真っ黒に日焼けした中ではさほど目立たない、健康的な褐色の肌。
 サラサラと風に流れる姿は清流のような、長くて綺麗な髪。
 女の子といえばTシャツとキュロットか膝丈スカートが多い中、妙に印象的な白いワンピース。腋から見える微かなふくらみはドキッとさせられる。
 横顔は、びっくりするほど整っていて可愛らしいのに、何故か目を離して思い出そうとしてみるとどんな顔だったか忘れてしまう、不思議な女の子。
 確か一学期には……

 いや。
 知っている気がする。
 話せばきっと思い出す気がするのだ。
 女子たちも、周りの男子も、みんなその少女がそこにいることを気にもしていない。というか、自然なことのように受け止めている。
 誰一人、彼女が綺麗であることも、田舎の小学校には不似合いな真っ白のワンピースを着ていることも気にしていない。増して彼女が誰かなんて尋ねることさえ馬鹿らしいという感じで接している。先生でさえ。

「っ!!」

 少年は不意に理解した。
 この状況は、特異だ。
 彼女を妙に気にしている自分は間違っていない。
 そして、この状況を少年はよく知っている。
 知っている。
 自分は、彼女を、知っている!

「……そういうことかっ」

 少年が思わず口にすると、みんながバッとこちらを向いた。
 今は帰りの会の最中だ。
 一人で声を上げれば、みんなが変に思う。
 そう、自分はただ独り言を言うだけでみんなに注目されてしまうのに、彼女はあれほど特異な存在だというのに誰も一瞬たりともおかしいとは思わない。
 確信した。
「どうした? 早く帰りたいのはわかるがもうちょっとぐらい我慢しろなー」
 担任の言葉にとりあえず愛想笑いで頷いておいて、その特異な少女を見つめた。
 褐色の肌を包む、真っ白なワンピース。
 びっくりするほど綺麗な顔。
 そして。

 長い耳を持つ、見覚えのないクラスメイトを。


「……なぁ」
「なに?」
 担任からの改めての「夏休みの諸注意」が終わり、礼が済むと、クラスの誰もが教室を飛び出していく。
 たったの5分で教室には少年と、ワンピースの少女だけになった。
「……お前、誰?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「なんとなく」
 少年は少女を見据えて、問い詰めるように言葉を発した。
「知ってるような気がするし、知らないようにも思う。でも多分、知ってる。お前は……」
「うん。そうだね」
 担任が電気を消してもちっとも暗くならない。
 真夏の真っ白な陽光が、視界の隅で木の床を必要以上に輝かせている。コントラストのキツさのせいか、少年は妙な酩酊感を覚えた。
 足音が響く。少女が少年に二歩だけ歩み寄る。
「……俺の知ってる人、か?」
「…………」
 少女は黙って微笑んだ。
 少年は、起こっていることの概要は理解できていたが、確証がない。
 この少女は、自分のことを大好きだといっていたあの「姉ちゃん」なのか。
 それとも、あの河原で顔を合わせたダークエルフの一人なのか。
 もしかしたらそれらとは全然関係ない同族かもしれない。
 だから少年は、真剣に確かめようとする。
 少女はくるりとステップしながら回り、少年に満面の笑みで答えた。
「そうだよ」
「……そ、そうなのか」
 少年は、なんとなく想像してはいたものの、ちょっとだけ驚いた。
 どうやって、こんな幼い姿になったのだろう。少なく見積もっても7〜8歳は若返っているように思う。
「君にもバレないように、厳重に認識ズラしたつもりだったんだけどなー」
「にんしき……?」
「うん。ま、勝手にかかる催眠術みたいな感じ」
「……そんなの、使ってたんだ」
「私だけじゃないけどね。……こっちのみんなと仲良くしたい、私の国の人たち、みんなが共同で支えてる……って、君にはあんまり意味ない話なんだけどね」
「?」
 少年にはよくわからない話だった。
 が、少女はそれでいいんだよと笑って、少年の手を取って歩き出す。
「案内してよ」
「え……」
「せっかく今日は、君のクラスメイトになったんだもの。……君の好きなこの学校、教えて欲しいな」


 まだ廊下で低学年が追いかけっこしている校舎内。
 はだしのゲンとズッコケシリーズばかりが妙に人気な図書室。
 午前中だけという約束で解放された、バスケットコート一面分のオンボロ体育館。一年生から六年生までの有志がみんなでドッジボールしている。
 午後も誰かが入るに違いない、今はトンボが跳ね回っているだけのプール。
 薄暗い理科室、図工室。肝試しにはもってこい。
 誰かが遊んでいるのだろう、ピアノで「猫踏んじゃった」を狂ったような速度で繰り返し弾く音が音楽室から響いてくる。
 校舎の谷間の池には鯉が数匹。校長先生のペットだと聞いた。
 そして。

「そこに足かけて、手はこっち掴んで」
「こ、怖いよぅ」
「大丈夫、落ちやしないって」
 少年がワンピースの少女を伴って最後に訪れたのは、校舎裏の崖の上の木。
 そこに登ると学校全部が一望できるのだ。
「わぁ……」
 少年の後について登りきった少女も、その眺めには感嘆した。
 校舎の、飾り気のないコールタール塗りのトタン屋根。
 校庭で一輪車やボールで遊ぶ子供たち。
 周りに広がる畑と民家。せせらぐ川。遠い遠い山。線路。
 田舎の学校の、実に田舎らしい、のどかでありながら生命力に満ちた眺めがそこにあった。
「……いい眺め」
「だろ?」
 少年はちょっとだけカッコつけて枝から手を離し、頭の後ろで手を組む。何度も何度も登った木だ、その程度で落ちるはずはなかった。
 が、そんな不安定な体勢をとれば傍から見ている方が慌ててしまう。
「あ、ちょっ、危ないよっ」
 少女は少年の愚挙を止めようと手を伸ばす。
 それがまたよくなかった。枝がユサッと揺れて、結果として少年は足を滑らせた。
「う、うわああっ!?」
 少年、後悔したが後の祭り。
 必死で足を何とか枝に絡めようとしたが失敗し、崖の上だったこともあって、落差10mにも及ぼうかという大落下を始めてしまい、


「────────────!!」


 少年は、ハッとした。
 家の濡れ縁の上。少年はあぐらを掻いて座っていた。
「……あ、あれ?」
 見回す。
 祖父が濡れ縁の少し離れたところで昼寝をしていた。イビキをかいて幸せそう。
 祖母が菜園から籠いっぱいのトマトをもいで戻ってこようとしている。少年に気づいて、祖母は目を丸くした。
「おやぁ、いつのまに帰ってきたんだい」
「……あ、え、うん……」
 少年は自分がどうしてここにいるのか理解できていない。
 カレンダーを見る。日めくりじゃないのでわからない。
 テレビの棒スイッチを引っ張ると、ちょうどNHKがお昼のニュースで日付を言ってくれた。やっぱり登校日。
 もしかしたら昨日、ダークエルフの彼女と喋っている最中に居眠りしてそのままだったか、と思ったが違うようだ。
「……あ、あれ?」
 ならば自分は崖下に落ちているはず。今ここにいる自分は生き霊か。
 ちょっとゾッとした。
 が。

「危なかったんだからね?」

 純白のワンピースが揺れる。
 あの少女が、耳元で風のように囁いた。
 振り向くと、そこに少年と変わらない背丈の、あの少女が……。
 いや。
「あんまり危ないこと、しないの」
 濡れ縁で、咎めるような、安心したような顔で座っている「姉ちゃん」がいた。
「……姉ちゃん」
「?」
「どっからどこまで、夢なんだ?」
「…………」
 彼女はやれやれ、という風に笑って、答えた。

「君が夢だと思ったとこまで、かな」

 いずれ証拠もなく、少年の心以外に記憶されることもなく。
 たった半日の、とびっきりのクラスメイトは、夏の陽炎のように。


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