入道雲を見ると、その大きさに圧倒されながらも、そのてっぺんによじ登ってみたくなる。
 それはくっきりした影を作り、立体感のある夏の空ゆえか。それとも先日話題になった天空の城ラピュタのせいか。
 あの巨大な雲に飛び乗って、真っ白な壁を掴んで這って、きっと山より大きいであろう真っ白の雲の頭、頂上に立つことを夢想する。そんなことはできないなんて、理科の時間に聞いて知っているけれど、だけど想像力は無限だ。
 真っ青な空の真ん中で、真っ白な積乱雲のてっぺんで、胸いっぱいの夏の空気を声にして吐き出す。そんなシーンをリアルに思い浮かべる。
 できるはずのない、意味なんかない。そんな行為なのに、すごくワクワクした。
「雨、やんだ?」
「うん」
 背後に感じる優しい気配に、目を閉じて夢想に飛んだまま少年は頷く。
 ついさっきまで天気雨が降っていた。外で祖母の手伝いをしていた少年とダークエルフは、それで濡れて慌てて屋内に引っ込んだのだった。
 ランニングに短パン一丁がトレードマークの少年は、濡れたまんま転がってたって何一つ困らないが、成熟した肢体を持つ大人の彼女にはそれは酷である。祖母が奥に連れ込んで、今まで着替えを漁っていた。
「キツネのよめいり、っていうんだって」
「何それ」
「お天気雨の事だって。おばあ様が今、教えてくれたの」
「キツネのよめいり、ねぇ」
 天気雨は天気雨。少年にとっては洒落た言い回しなど、違和感しかない。
 が、彼女にとってはそうでもないようだった。
「キツネさんでもお嫁さんに行くって、面白いよね」
「そりゃ猫だって犬だって交尾するんだし、キツネだってさあ」
「お嫁さんになるっていうのが可愛らしいじゃない。……交尾なんて下品な言い方しないのっ」
「…………」
 犬猫に交尾という言い方のどこがいけないのか、少年は悩んだ。
「でもさぁ」
 と、反論しようとして目を開けると、彼女はしばらく前に着ていた浴衣を再び着ていた。
「っ…………」
 思考停止。
「どしたの?」
 邪気なく彼女は目の前に正座し、少年に微笑みかけている。
 前はただ着ただけだったが、今回は勝手がわかったからか、髪を簡単に結い上げ、うなじをさらしているのがまた美しい。
 そのエキゾチックな魅力に、少年は継ぐべき言葉を忘れて見とれた。

 数分もそうして、意味もなく見つめあっていただろうか。
「やれやれ、降るなら降ってくれた方が諦めもついたんだがねぇ」
 祖母が見事に晴れ上がった空を見て溜め息をつきつつ現れた。彼女もザバッと濡れたので服を替えていたのだ。さすがに浴衣ではなかったが。
「せっかく来てもらったけど、今日の畑仕事はあれでしまいにしようかね。また服汚すのもナンだし」
「やりっ」
 正直な少年は跳ね起きる。内心この暑い中、農作業なんかやってられるかとも思っていたのだった。
 そんな現金な少年に、祖母と彼女は苦笑。
「ねーちゃん、遊ぼうぜ!」
「まだ地面が濡れてるでよ。はしゃぐんじゃないよ」
「わーってるって!」
 祖母に言われるまでもなく、今一度外に飛び出そうとは思わない。
 もうすぐ夕方。夕食前には辞してしまう彼女と一緒にいられる時間は、あまり多くはないのだ。

「ショーギ?」
「そう。お互い20個ずつの駒で王様取り合うゲーム」
 色々考えた末、オモチャ箱から最初に取り出した二つ折りの将棋盤に彼女が興味を示したのでルールを教え、これを楽しむことにする。
 が。
「……駒、40個もないけど」
「うーん」
 駒の箱を開けて広げてみたものの、どう見ても足りない。子供のずさんな管理の中では駒がバラけるなど日常茶飯事なのだった。祖父に言うとそのたびに「しゃーねえなあ」と木っ端から手作りで補充してくれるのだが、あいにくと祖父は寄り合いから戻ってくる気配がない。
「なければ……まあ、代用でやりゃいいんだ」
 そこで少年は実に子供らしい結論に達した。

 パチン、と駒を進める少年。歩兵の変わりに、おはじき。
「よし三行目な。この線まで来たら裏返っていいんだ」
「裏返る?」
「裏返るとパワーアップするんだ」
 少年はおはじきを裏返す。が、正直言って目立たない。
 そこで少年はおはじきを取り上げ、代わりにキン消しを置いた。
「ええー!?」
「こっちの方が強そうじゃん?」
「なんか間違ってる気がするよ……」
 子供ならではのフリーダムさ加減であった。
「じゃ、じゃあ、……えい」
 彼女も駒を進める。少年のたどたどしい説明を聞いただけでゲーム構造を理解した彼女は聡明だった。
 今まさに成ったばかりのキン消しを取ろうと桂馬を飛ばす。
 少年はニヤリと笑った。
「桂馬なんかでウォーズマンに勝てるわけないぜ」
「えっ……えーっ!?」
 もはや代用とかそういう問題ではない。だが盤上に立っているのがウォーズマンである以上少年にとってはウォーズマンなのである。
「そんなのないよぅ」
「せめて飛車角でなきゃウォーズマンは倒せない!」
「ええええ」
 暴虐であった。

 将棋の結果は……まあとりあえず置いておこう。
「次から絶対ウォーズマン禁止……」
「はい……」
 涙目になりながらも一応ちゃんとゲームセットまでウォーズマンルールに付き合ったダークエルフはとてもお人よしと言える。
「つ、次はドンジャラやろうぜ!」
「ヲーズマン禁止……」
「つ、使わないから!」
 彼女の中ではウォーズマンは未来永劫正義超人になれない。
 そしてもう駒を使うタイプのゲームは危険だ。
 そう思った少年が伝家の宝刀ラジコンを取り出そうとしたその時、タイヤが砂利を踏む音とコロの鳴き声。
「あ、じいちゃんだ」
 少年が首を伸ばすと、老人が軽トラから勢いよく飛び降りてくるところだった。還暦などとうに過ぎたくせに猿のように元気な爺様である。
「おう坊主! 何やってんだ早く行けや!」
「え?」
 いきなり「何やってんだ」と言われてもわからない。
 が、祖父は「かーっ、やっぱ聞いてなかったか」と呟くと、村の真ん中の方を指差した。
「お宮様の神輿、今日になるって防災無線で言ってただろうが」
「え……そうなの?」
 お宮様の神輿。
 夏祭りのオープニングセレモニー。村の子供たちにとっては参加すればもれなくジュース一本出してもらえるお得イベントである。月に千円やそこらのお小遣いではジュースだって高いのだ。
「やべ、じゃあ行かなきゃ」
「え、えっ?」
 彼女は不思議そうな顔をした。
 地域の祭りのことなんてわかるわけがない。少年は逸りながらも何から説明したものかと迷う。
 そこで祖父がニカッと笑って親指を立てた。
「任しとけ。お前は早く法被に着替えろ」

 少年が手早く着替えて玄関に飛び出すと、そこには揃いの法被と捻り鉢巻きをつけて出てくる祖父とダークエルフの姿があった。
「あ、あの……」
「にひひ、それでいいそれでいい、立派立派!」
 祖父は鼻の下を伸ばしきっている。それもそのはず、法被の隙間にはノーブラの巨乳が谷間を見せており、下半身は締め込みふんどし一丁。スラッとした長い足と、そこから続く綺麗なお尻がもうほとんど丸出しなのだった。
「じーちゃん!」
「ふへへ。坊主、やる気出たか」
「……このスケベジジイっ」
「エロガキが言うじゃねーか」
 着替えさせたということは祖父は真面目くさった顔で「これを着なきゃ祭りに出られねぇんだ。どれ、こうしてこうやって着るんだよフヒヒ」とか言いながら着方を教えたに違いない。自分に内緒でダークエルフの裸体を拝んでいたに違いない。そこが妙に悔しかったが、とりあえずこの恰好をさせた功績は称えないわけにもいかない。むくれながらも追及はしないことにした。
 どちらにしろ彼の命運は長くないし。
「こーのー…………腐れエロジジイーーーーッッ!!」
「あ、ちょ、待ったバァさ……がはぁっ!?」
 祖母、来襲。
 振り返った彼の顔面に、振りかぶった得物を躊躇うことなく横薙ぎに叩き込む。
 まるで時代劇の殺陣のような見事な太刀筋で振り抜かれたそれは、華奢なハエ叩きなどではない。頑丈な布団叩きだ。
 祖父はそのまま吹っ飛び、玄関の敷居も転がり越えて砂利の上を数メートルも転がり、伸びる。
「……死んだ?」
「お、おじいさーんっ!?」
「悪は滅んだわ。お嬢ちゃん、ごめんなさいねえ」
「死んでねえよ……」
 目の粗い砂利の上で、丈の短い法被にふんどし一丁である。あちこち傷だらけになった祖父は痛ましかったが心配したのはダークエルフだけだった。
「ねーちゃん。じーちゃんはドスケベだからあんまりホイホイ言うこと聞いちゃ駄目だよ」
「え……あう、やっぱりこれ、えっちな恰好……?」
「じーちゃんに着替えさせられたのが今回疑うべきところ!」
「あ、ああっ!」
 大丈夫だろうかこの姉ちゃん、と思いつつも、その恰好自体には問題を指摘しない少年である。

 少年とダークエルフは二人、祭囃子への道を歩く。
「あれはまだ動いてないから大丈夫。みんなでお神輿担ぎ始めるとワッショイワッショイ言うからわかるんだ」
「そ、そうなんだ……」
 二人そろって地下足袋で、舗装されていない道を行く。このあたりはまだ轍の掘りつけられた荒れ道で、まだ少しぬかるみが残っていて、足元に注意しないといけなかった。
「そ、それにしても……この下着、キツいね……」
「そりゃふんどしったらキツいもんだからな。じーちゃんは金玉引き締めると気合が入るって言ってよく締めてるけど、普通はパンツだよ」
「そ、そう……んくっ」
「ねーちゃん?」
「こ、擦れて……ちょっと変な感じ」
 目の前でダークエルフの尻がゆらゆら揺れる。わざとではない、股の違和感をなんとか調節しようという意図の動きなのだが、ほんの少しの冷や汗に濡れる褐色の尻のその動きは酷く卑猥だった。
「ゴクッ……」
 少年はその尻の動きと、恥じらう彼女の顔を見て、瞬時足元への注意を忘れる。
 そして、轍に足を引っ掛けて転びそうになる。
「あ……」
「危ないっ!」
 彼女が慌てて少年をかばった。
 少年が倒れる刹那、彼女がその身体を抱きかかえるようにして守る。
 二人して、よりにもよって泥水の溜まった轍の底へ転がってしまった。
「ね、ねーちゃん……」
「あ、あはは……大丈夫?」
 その、いざという時の機敏な動きに少し感動しながら、少年は彼女を見上げる。
 結い上げた綺麗な髪も、綺麗だった法被も、もちろん地下足袋もふんどしも泥だらけだ。
「あーあ……」
 その自分の惨状を見回して、彼女は苦笑する。
 これでは人の集まるところには行けまい。
「どうしよっか」
「……あ、洗おう!」
「?」
 ほら、そこに川あるし!」

 すぐ傍に流れていたのは川というより灌漑用の水路のようなものだった。
 とはいえ、水が汚れているわけではない。泥を落とす程度は問題ない。
 問題ないが。
「よいしょっ」
 彼女は少年に微笑むと、着ていた法被も髪留めもすぐに取り去り、やや金色に変わり始めた日光の中で肌を惜しげもなく晒した。
 そして違和感を覚えていたふんどしもゆっくりとほどき、生まれたままの姿になって水路で体と髪を洗う。
「ね、ねーちゃん……」
「なぁに?」
 恥ずかしくないのかよ、と言おうと思った。
 だが今さらだ。
 彼女が泳ぐときに生まれたままの姿になるのは初めてではないし、もともと彼女は二人っきりの時には肌を晒すことを恥じない。
 そういう文化の世界から来た、不思議な女性。耳の長い、ただの人間ではない、それでいていつの間にか当たり前のように生活に加わっていた、エキゾチックな魅力を持つ女性。
 ふと、そんな感慨が耳鳴りのように少年に沸きあがり、彼女への緩やかで濃厚な興奮に代わる。
 ああ。
 自分は。
 なんだかとても、幸せかもしれない。
 そんなことを思いながら、少年は水滴で輝きながら自分を見つめるダークエルフに近づいていく。
「ねーちゃん」
「なぁに?」
「……ねーちゃん、どこにも行かないよな」
「…………」
 彼女は少年の無遠慮な抱擁を受けながら、無言。
 顔を見れば、優しい微笑み。どうとでも取れる、母性的な笑み。
「行かないで」
 少年は、まるで初めて死について考えた幼子のように、ダークエルフにしがみ付いて、その胸に顔を埋めながら訴えた。
 ダークエルフはなおも無言。ただ、少しだけ腕の力を強めて。

 その時、天気雨がまた降り出した。
 夕焼けの赤の手前、黄金の光の中で、バラバラと落ちてきた雨は少年とダークエルフを叩く。
 二人は抱きあって、それをやり過ごす。

「キツネのよめいりって、ね」
「…………」
 雨脚が弱まった頃、彼女は囁くように語りだした。
「もしかしたら、あったかもしれないよ?」
「え……」
「広いこの世界には、キツネみたいなヒトもいる。……キツネさんはいつかこの国にきて、このあたりで嫁入りの儀式、したかもしれない。こんな風に空に祝いの旗を立てながら」
 彼女の胸の谷間から顔を上げると、彼女の母性的な笑顔の向こうに、虹。
 天気雨は、虹を生じやすい。
「君のことは、私、大好きだけど、私たちは忘れられやすいものだから」
 少年もなんとなくわかっていた。
 彼女は特別だ。
 その特別さは、いつか、きっと少年をも押し流す。
 この夏の思い出は、いつかそうして特別に、消えてしまう。
 だけど、少年は自分がそんなものを受け入れるなんて許せない。
「忘れるもんか」
 だから、この魅力的過ぎる女性を自らに刻み込むように、強く強く抱き締める。
 彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。母性でなく、少女の笑みだった。
「うん。……それなら、約束する。君が本当に忘れないなら、私たちはずっと、一緒。……君が私を、女として本当に必要になるくらい大きくなったら……結婚してあげる」
「大好きだよっ! 本当に、本当に必要だよ、今でもっ!」
「うん。……うん。嬉しいよ」
 彼女は情熱的なキスをした。

 のどかな日本の片隅の、泉ならぬ用水路。
 だが、彼女は、その瞬間、御伽噺の泉の妖精そのものに見えた。

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