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 夜の月明かりの下で、俺は温泉に浸かっている。
 本格的に虚脱していた。
「…………」
 ジャッキーさんの話は衝撃的だった。
 親父は、随分前に馬車に轢かれて死んでいた。

 親父は、俺が戦争に駆り出されたと聞いてから、随分酒の量が増えたらしい。
 トロット軍団に組み込まれた連中はまだ安否はわかるが、俺たちは戦争最終盤に国境近くに配置され、これから突撃しようというところで戦争が終わり、そのままセレスタの内地の軍団に組み込まれたので当初は行方の追いようがなく、死んだものと思われていたらしい。
 それで毎晩へべれけになるまで飲むようになって、そしてある日、町外れをふらふらしていて駅馬車に轢かれた。
 このポルカの住人は、相当な大怪我でも大病でも、霊泉のおかげで滅多なことでは死なない。
 だが親父は馬に踏まれ車輪に胸郭を潰され、完全に即死だったという。
 思いつく限り最低の最期だ。
 そしてお袋は息子と夫を失い、失意のうちに家を手放す決意をする。
 もともとポルカは魔物も出やすく、エルフからの突発的な攻撃もある。女手一つでは雪下ろしもままならない。霊泉があるとはいえ、お袋一人で暮らすには辛い土地だ。
 だから今は西のフォルクローレに移住してしまったらしい。そして、家と工房は、親父が酒に溺れ始めた頃から工房を支えていたジャッキーさんに託された。

「本当なら坊ちゃんが生きてるってわかったのなら、家も工房もお返しするのが筋なんでしょうが……ね」
 ジャッキーさんは済まなそうに頭を掻いた。
「見ての通り、今は妻も娘もありまして。……ハーフオーガの俺には、ここを出てしまったらなかなか職場も家も難しいんですわ」
 ジャッキーさんの言うことは痛いほどわかる。
 ハーフは、ハーフ。ハーフエルフほどではないが、帰属するコミュニティに困るのは変わりない。
 一度手にしてしまった安住の地。いくら義理があるとはいえ、ホイホイ手放せるものではないだろう。
 結局、俺はジャッキーさんとその家族に何も言うことはできず、ただその場を辞することしかできなかった。

「アンディさん」
「…………」
 振り向いてみると、セレンがいた。
 温泉の浴槽内、当然ながら素っ裸だ。
「ここ、男湯だぞ」
「そうですね」
「まだ営業時間だ。誰が入ってきてもおかしくないぞ」
「そうですねー」
 セレンはことさら明るく笑うと、俺と背中合わせに湯の中に座った。
「……でも、私はアンディさんの雌奴隷ですから」
「…………」
「アンディさんがそう思ってくれる限り、絶対に、ずっと、雌奴隷ですから。どこまででも一緒ですよ♪」
「セレン……」
 セレンも、アップルとの会話の中で何か思うところがあったらしい。
 しばらく二人で、篝火の揺らめく男湯の中で、夜空を見上げる。

「……セレン。親父、死んでたよ」
 ぽつっと言ってみた。
「……そう、でしたか」
「セレンは知らなかったのか?」
「……言いませんでしたっけ。私たち、あまりポルカの人たちと開けっぴろげに交流してたわけじゃなかったんですよ。アップルが撃たれてからは別ですけど」
「……そっか」
 そういえば、セレスタが勝つまでは街に入ることすらできなかったはず。
 親父が死んだ頃だって、あまり街を大っぴらに歩けたわけではないだろう。
 それに彼女たちは俺自身に隷従を誓っただけで、親父たちのことは気にする義理はない。ハーフエルフは親にも疎まれた者が多く、誰かと因縁ができたとしても親の世代を気にしようとはしないという。
「どんな、お父さんだったんですか」
「駄目親父だな」
 俺は即答した。
「酒が弱いくせに酒好きでカード好きで、難しいことを考えるのは苦手で、あんまり細かい計算したがらなくて、お袋が居ない時はいつもドンブリ勘定で、よくお袋に怒られてた。あっちこっちにツケがあって、綺麗なお姉さんに色目を使われると途端に格安で仕事受けちゃったりしてな。そのくせ他人の借金の保証人には気軽になっちゃったりして逃げられたことが、俺の知ってるだけで4回ある」
「そ、それは……」
「でも、街のみんながいつも『スマイソン親方が困ってるんじゃあなあ』って、手助けしてくれる、そんな得な親父だったよ。スリード工房でも親父に借金されたまんまだぜっていう職人は片手じゃ足りないぐらいいたけど、誰も俺から取り返そうとはしなかった」
 懐かしい、親父の情けない愛想笑いと、それで「しょうがねえなあ」っていろいろ帳消しにしてくれてる街の人たちの姿が夜空に浮かんでくる。
「なんかわかんないけど、いつも人の世話になりまくって、その分誰のためにでも気軽に働いてみせる親父だった」
「……アンディさんみたいですね」
「お、俺は酒は好きだけど借金はしてないぞ」
「誰のためにでもすごく必死になれて、優しくしてあげられて、その分みんなにお世話になってるじゃないですか」
「……俺、親父似なのかなあ」
「かもしれないですね」
 くすくすとセレンは笑った。
「……だけどさ」
 セレンの優しい声に包まれて、ぬくもりと柔らかさに触れて。
 ガスが抜けたようだった俺の胸に、ようやく感情が戻り始めた。
「俺、親父にはまだなんにも返しちゃいなかったんだ」
 涙が、出てくる。
 ジャッキーさんから話を聞いた時には、アップルに冷たい態度を取られたことの余韻もあって、ショックではあったけれど全然悲しいと思えなかったのに。
「俺は……俺はさあ、親父にもっと親孝行してやりたかったんだよ。親父、俺に言ってたんだ。いつか剣聖の鎧を合作しような、とか、大人になったら毎晩交代で酒おごり合おうな、とか、ジジイにお前の命名権取られたから孫の名前は俺に考えさせろ、とか、お前がもっと大きくなったら肩揉みも効くようになるんだろうなあ、とか……全部、やりたかったんだ。親父にもらった幸福を、返してやりたかった。俺はポルカに生まれて幸せだったって、あんたの子供でよかったって、ここに帰って来て伝えたかったんだ」
 途中から、鼻声になった。
 涙か止まらなかった。
 霊泉の中にボロボロと涙と鼻水を落としながら、俺はようやく、親父を永遠に失ったことを実感していた。
「……いいなあ、アンディさん」
「……ひくっ……ううっ……っ」
「お父さん、本当にいい人だったんですね」
「…………」
 何か答えようとしたが、答えられず。
 そんな俺を後ろから抱きしめて、セレンは優しく語り始める。
「私は、物心ついた時には、エルフのおかあさんは死んじゃってて……人間のお父さんも、私のことを厄介者だって思ってて。ハーフエルフに居場所はないって、そればかりを実感しながら、育ったんです。私を受け入れてくれたのは、同じ居場所のないアップルだけでした。みんな、私たちの容姿はいいから、一晩だけのつもりで近づいては来るんです。でも、わかっちゃう。次の日になったら踏みつけにする気だって。……そうじゃなかったのは、アンディさんが最初でした」
「…………」
「トレント病って、知ってますか?」
「…………」
 ふるふる、と首を横に振る。
「身体がだんだん木みたいになっていく病気……呪いの一種とも言われてます。私はその病気の元になった矢毒を、アフィルムの森エルフから受けました」
「……身内……?」
「ええ。……あそこのエルフって、偏屈ですから。自分たちの意志を外れた血族の存在を、認めないんです。それで私はそのまま木になっちゃう運命でした。……それでもいいかなって思いましたけど。毎日毎日旅をするのに疲れちゃったから」
「…………」
「でも、そんな私をアップルは助けようとしてくれた。私にとってアップルは半身みたいなものだし、アップルにとってもそうだったんでしょう。でも、そんな私たちを見捨てないで、いつまででも傍にいてくれようとする人が現れるなんて、思わなかった。だからアンディさんは大切なんです。例えアンディさんが同族と結婚してしまっても、ずっと飼われていたいくらい、かけがえがないんです。だから私たちは雌奴隷になりたかった」
 ぎゅうっ、とセレンは俺を抱きしめる。
「子供の頃の、何も知らないおかげの独占欲だっていうのは、わかってます。でもその独占欲だけで充分だった。私たちはそのまま独占されていたかった。汚い言い方をしてしまうと、アップルは、あなたがそう思うように教育しようとさえしていたんです」
「……そんなの、いらない。お前たちは、俺のだ」
「ええ。だから、アンディさんが未だにハーフエルフが自分の恋人だって公言していたって、セレスタで知った時、涙が出るほど嬉しかった。あなたは、私たちの持ち主だって、本当にそういう人なんだってわかったから。だから、アップルもきっと喜んでくれるって思ってた」
「…………」
「なんで、こんなことになっちゃうんでしょうね。……私たちは、そんなに贅沢な幸せを望んでいるわけじゃないのに」
「……セレン」
 俺は、セレンのぬくもりを感じながら、搾り出すように言った。
「俺、諦めないよ。ここでの思い出を、ここで見た夢を、なかったことには絶対しない。いつか、セレンもアップルも幸せにしたいよ。……だから、アップルが俺のこと思い出せないならそれでもいい。アップルともう一度、恋してみせる。振り向かせてやる」
 俺の立つべき場所は、この街には残っていない。受け継ぐべき家も、待っていたはずの少女も、俺を待ってはいなかった。
 だけど、俺は、やっぱりここで生まれ、ここで恋して、ここに帰ってくることを目指して生きてきたから。
 今さら記憶がないぐらいなんだ。家がないぐらいでなんだ。
 俺はまだ現実に負けてない。何一つ苦労なんかしていない。
 俺は、幸せになりたいんだ。

 遠くで十の鐘が鳴った。
 篝火は半分かた燃え尽き、この後はもう誰も入っては来ないだろう。
 だけど、どこか遠くで水音がした。
 誰かがセレンの裸を見たかもしれない、と思いはしたが、耳のいいセレンが気づいていないはずはないし、そして気にしていないようだったので、俺は何も言わずにセレンに抱きしめられ続けていた。


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