彼女は、まるっきり他人を見る目つきだった。
「あなたが、アンディ・スマイソンさんですね」
「……ああ」
「お医者さん……ヒルダさんとセレンに、聞きました。……セレンのトレント病と、私の半死状態を、あなたが助けてくれたんですよね」
「……そうなる」
「その……ありがとう、ございます。その事実だけは間違いないみたいですから、お礼だけは言っておかなくてはと思いまして」
「……うん」
ハーフエルフの少女は戸惑ったような口調で、あまり意思のこもっていない礼を口にして、それから俺をじっと胡散臭い他人を見る目で凝視した。
「アップル、なんで睨むの」
「セレン……だって、この人」
「アップルだって大好きだった人なんだよ? 離れたくないって泣くぐらい、大好きな人だったんだよ?」
「でも、やっぱり普通じゃないよ。首輪とか、雌奴隷とかっ……セレン、やっぱりおかしいよ」
「アップル!!」
声を荒げるセレンを、俺は手を上げて制止する。
「確かに普通じゃないんだ。彼女の言ってることは間違ってなんかない」
「アンディさん……」
「……間違ってないよ」
俺は自分でも驚くほど、物分かりのよさそうな声を出していた。
「それより、15年以上もの時間を忘れちゃったんだ。彼女の方が大変だろ」
「…………」
アップルは、ずっと不安そうな顔をしていた。
唯一にして最高の味方であるはずのセレンが、なぜか知らない男の奴隷を宣言して、アップル自身も雌奴隷のはずだと言い張っているんだ。
ただでさえハーフエルフの迫害されつづけの人生で、同類の親友が突然そんなことを言っている。何もわからないなら、今、彼女は絶望的な心境に違いない。
今は彼女には味方が必要だ。
「セレン、しばらくアップルについててあげてくれ」
「……はい」
セレンの手には、アップルに返す筈だった古ぼけた首輪。
行き場を無くした幼稚な約束。
……俺の人生の支えは、こんなにもあっけなく意味を失った。
そのことに実感が湧かなくて、口では気遣いのある言葉を紡ぎながら、胸の中は急に靄に包まれてたようにぼんやりして、ポツッと感情みたいなものが生まれては身体に行き渡る前に消えていく感じを味わっていた。
こういう感じを空虚っていうんだろうか。
セレンを病院において、俺たちは通りに出る。
「この症例で記憶が消えることなんて、あるんですか」
ヒルダさんに尋ねると、淡々と答えが返ってきた。
「そういうこともなくはない、ってところかしら。干からびたお料理に水をかけても、全部が元に戻るわけじゃないでしょう?」
「……なるほど」
「でも、もしかしたら記憶が混乱しているだけかもしれない。いつか思い出すかもしれないし、思い出さないかも知れないわ」
「魔法で何とかできないんですか」
「魔法は心を癒せないわ」
ヒルダさんの声が、少しだけ寂しそうな色を帯びる。
「自分の記憶を人に見せることはできるし、偽りの事象を送り込むこともできる。魔法を使って洗脳する方法だってあるわ。でも、本人の抱えた心の傷、本人の抱えた思い出、そういったものを元通りにしてあげる方法は、やっぱりない。元々心はみんな違う形をしているし、繊細なものだから、手を入れることは必ずしも癒しではないの。それでも手を入れるのは癒しではなくて改造よ」
「……そうですよね」
例えば、もし、今からヒルダさんが魔法を使ってアップルを15年前の俺の記憶の通りの子にしたって、それはアップルにとって癒しではない。ただの押し付けだ。
記憶が壊れてしまっていたとしても、アップルの「今」はそこにしかない。これがもしも俺なら、多少の記憶が消えたって軍やポルカといった信頼できる世界から補えるが、世界中のどこにも、彼女の記憶を補えるものはない。
彼女と俺を繋ぐものは15年前の幼稚な約束だけだ。それを改めて実感した。
彼女は俺のことを何も知らず、俺は彼女のことを何も知らないまま、ただぬくもりがそこにあったから求め合い、いつかふたたび暖め合おうと約束しただけ。
……俺は、彼女にとって何でもない。
そのことが、なんだかじんわりと悲しかった。
じんわりで済んでいるのは、きっとセレンやディアーネさん、アンゼロスやライラたちが背中を支えてくれているからなんだろうけれど。
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